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  ◆松本仁介氏医学振興基金より受贈された図書館蔵書の紹介

    図書館では、毎年財団法人京都府医学振興会(松本仁介氏基金)から、医学の歴史研究に
   役立つ古医書を貴重なコレクションとして寄贈いただいています。
   このページでは、このコレクションの一部を紹介し、その内容をわかりやすく説明していきます。
   解説は本学人文・社会科学教室准教授 八木聖弥先生にお願いしています。
   (内容は順次増やしていく予定です)

 
             
  【婦人寿草】享保11年(1726)刊 OPAC 画像(抜粋)
    香月牛山(1656〜1740)著。3巻6冊。牛山は筑前出身で儒学を貝原益軒に、医学を鶴原玄益に学んだ。のち京都で開業する。李東垣の医説を信奉する後世派であるが、みずからの経験も加味した。本書は啓蒙的な産科書であり、中国の古典を引用しつつ、産前産後の過ごし方について説明する。胎教についての一節もあり、「妊婦、其子の容貌端正に心行正直ならんことを欲せば、つねに口に正言を談じ、かりにも雑話婬乱なることをかたるべからず。身に正事をおこなひ、放逸無慙なるふるまひをなすべからず」などと記されている。   
  【西遊日記】天保7年(1836)序 OPAC 画像(抜粋)    
    新宮凉庭(1787〜1854)著。1巻1冊。凉庭の長崎遊学を日記風にまとめた。凉庭は文化7年(1810)8月6日京都を出発、同10年(1813)9月16日長崎到着。吉雄如淵(耕牛の末子)にオランダ語を学び、プレンキの外科書・解剖書を訳した。のち『解体則』として出版される。また天文学者末次独笑に算数を学んだ。本書の内容には一部錯簡が認められるが、凉庭の長崎遊学を知る好資料といえる。巻末に「順正楼丙申集」を付し、中国人物論や漢詩を載せる。続刊の予定もあったようだが未刊。  
 

【但泉紀行】弘化3年(1846)序 OPAC 画像(抜粋)

    新宮凉庭(1787〜1854)著。1巻1冊。弘化2年(1845)3月、凉庭一家が城崎温泉に行ったときの記録。娘の松代が「子宮疝」に罹ったため湯治に出かけた。3月15日に出発し4月1日に到着。城崎には25日まで滞在し、5月18日に帰宅する。その間、凉庭自身は多くの診察をこなし、「温泉論」の執筆を行うなど、多忙を極めた。娘は一時危篤となったが、のち回復して凉民と結婚、本家を相続した。   
  【破レ家ノツヅクリ話】弘化4年(1847)序 OPAC 画像(抜粋)
    新宮凉庭(1787〜1854)著。3巻3冊。上巻は経済篇、中巻は政事篇、下巻は政事篇・吏術篇から成る。某藩家老が凉庭に財政の立て直し策をたずね、これにこたえたもの。凉庭は経済的に困窮した家庭に育ったこともあって、のち裕福になっても質素倹約を旨として生活した。本書でも奢侈を戒め、倹約を説く。また人の上に立つ者は、徳を積み諫言を聞き入れる度量が必要であるという。   
  【順正書院記】明治2年(1869)序 OPAC 画像(抜粋)
    新宮貞亮(凉介。1822〜1875)編。1巻1冊。新宮凉庭の死後、凉a・凉閣・凉介の三子が相謀り一書をなしたという。凉庭は私財1万両を投じて順正書院を創設した。天保10年(1839)から3年を費やしたという。医学・儒学を講じる場であり、文化人のサロンでもあった。シーボルトは順正書院の蔵書を黄金3000両に値すると評した。本書は書院の絵を載せるほか、凉庭の業績に対して12名が賛辞を寄せている。  
  【鬼国先生言行録】明治18年(1885)序 OPAC 画像(抜粋)
    新宮凉閣(1828〜1885)著。1巻1冊。新宮凉庭に関する基本的伝記の一つ。幼少時の凉庭については本書によるしかない。凉庭は11歳のとき伯父有馬凉築の学僕となり、巌渓嵩台に経書を学んだ。記憶力に優れ神童とうたわれた。33歳のとき京都で開業したが、治療に「楽屋療治」「附合療治」「豪家療治」の三法があるといった。また医は仁術というも、術が拙くては誤って人を殺すこともあり、仁医とはいえないと考えた。門弟には医術の上達につとめさせたという。  
 
【解体発蒙】 文化10(1813)
OPAC 画像(抜粋)
    三谷公器(1775〜1823)著。文化10年(1813)刊。5冊(4巻、附録1巻)。中国医学の絶対性を信じ、西洋解剖学の内容はその中に含まれると考えた。掲載箇所では動脈を経脈、静脈を絡脈としている。また杉田玄白の影響も受け、三焦のうち上焦府をゲールペイプ(ゲール管)、中焦府を大キリイル(膵臓)、下焦府をゲールカキュウ(乳糜槽)にあてている。挿図は多色刷りで、京都で行なわれた解剖に参加した際の所見と、小石元俊が指導した『平治郎臓図』や『施薬院解男体臓図』(いずれも画は吉村蘭洲)などを参考にした。  
 
【本朝醫談】 文政7(1824)
OPAC 二編:文政13(1830) OPAC 画像(抜粋)
    奈須恒徳(1774〜1841)著。文政5年(1822)刊。所蔵本は同7年(1824)の再刷りで、恒徳の門人服部甫庵の跋を付す。続編にあたる二編は同13年(1830)刊。医薬や医療制度などに関する歴史随想集。なかでも曲直瀬道三の『啓迪集』を「近古の医書多しといへども啓迪集より盛なるはなし」と高く評価している。二編では江戸初期に「みいら」という薬が流行したことを伝えている。恒徳は多紀氏の医学館に学んで医官を目指したが、やがて古医書の研究に専念、黒川道祐『本朝医考』のあとを受け、医史の叙述に励んだ。  
 
【眼科錦嚢】 天保2(1831)
【續眼科錦嚢】 天保8(1837) OPAC 画像(抜粋)
    著者の本庄普一(1798〜1846)は和漢蘭を折衷して眼科学の大成に寄与した。解剖学・生理学を基礎として眼病を外障・内障に分類、病名を確立した。著者の「例言」には「積年の艱苦を経てこれを為す」と記す。眼病の地域差を指摘して摂生を説き、義眼の製造法も紹介する。続編では奇病難治の治療法を論じ、眼科療具図解を付し、手術法も図示している。前編4冊は天保2年(1831)、続編2冊は同8年(1837)刊。  
 
【醫案類語】 文政元(1818)
OPAC 画像(抜粋)
    皆川淇園訳定、吉岡元亮ら編による医学用語辞典。淇園(1734〜1807)は医家ではないが、医書の読解に資するために用例を集めた。人品・病原・病候・諸療・定案・製薬・施治・紀効に分け、漢文の傍らにカタカナで読みを付す。掲載写真は医人の称謂の箇所で、高手(じょうず)と庸工(へた)などに分けて呼び名を列挙する。安永3年(1774)の序があるが、本書は文政元年(1818)版。12巻5冊。  
 
【病名彙解】 貞享3(1686)序
OPAC 画像(抜粋)
    蘆川桂洲著。8冊(序目1巻、7巻)。貞享3年(1686)序。病名1822項目をいろは順に並べ解説を施す。『外科正宗』『医学綱目』などから引用する。当初は治療法にも言及するつもりであったが、繁多を極めたため省略したという。疾病は六気(風寒暑湿燥火)七情(喜怒憂思悲恐驚)の過不足によると断言している。すべての病名にルビを付し、カタカナ交じりの本文とするなど、初学者向けの内容である。  
 
【蒹葭堂雜録】 安政6(1859)
OPAC 画像(抜粋)
    木村蒹葭堂孔恭(1736〜1802)は大坂の北堀江で酒造業を営むかたわら本草学に通じ、物産収集・考証学・画業・詩文・出版など多彩な方面で活躍、交友関係も広い。本書は四代目蒹葭堂主人の依頼により暁鐘成がまとめたもので、所蔵品から珍奇なものを選んでいる。画は松川半山。安政3年(1856)序。5冊。掲載図は「異魚」と「食火鳥」。異魚は「口さきに釘のごとくなるもの有。長サ五六寸」と記す。食火鳥の項では得意のオランダ語「カスワル」を併記するなど、蘭学への興味の一端を示す。  
 
【泰西疫論 前後篇】 文政7(1824)-天保6(1835)
OPAC 画像(抜粋)
    順正書院を創設した新宮凉庭(1787〜1854)が長崎で火災後の熱病治療に役立てるため西洋医書を訳した。前編・神経疫部2冊は文政7年(1824)刊。フーフェランドやコンスブルックの内科書の一部を抜粋してまとめた。後編・腐敗熱部2冊は天保6年(1835)刊。西洋医書の範囲を広げ、腐敗の疫は邪が胃中に成るという。凉庭は丹後由良の出身で、室町通高辻で開業した。彼を訪ねたシーボルトは日本一の蘭書所蔵者であるといった。養子の凉民・凉閣、孫の凉亭らは本学の創設に貢献した。  
 
【銃創瑣言】 嘉永7年(1854)
OPAC 画像(抜粋)
    大槻俊斎(1806〜1862)がセリウスの外科書、モストの医事韻府から銃創に関する部分を抄訳した。当時、一部を除いて蘭書の翻訳は禁止されていたが、嘉永7年(1854)刊行にこぎつけた。1冊。俊斎はみずから西洋式砲術を学び、軍陣医学に尽力した。天保12年(1841)長崎で牛痘接種法を学び、江戸に帰って種痘に成功した。江戸における最初の種痘であった。お玉が池種痘所創設の中心人物としても知られ、オランダ医学の発展に尽した。  
 
【質測窮理 解臓図賦】 文政6(1823)
 OPAC 画像(抜粋)
 
  kaizouzufu-gazou   文政4年(1821)12月16日、小森玄良(桃塢)が京都で行なった解剖の記録。23歳の男性の解剖には133名が参加したという。翌年、門人の池田冬蔵が刊行した。玄良は江間蘭斎や海上随鴎(偏は旧字体)に学び、文化6年(1809)京都で開業する。藤林普山とともに京都蘭学の双璧と呼ばれた。わが国ではじめて乳糜管を実見、図では胸管が左鎖骨下静脈に入るところで二つに分かれている。  
 
【常用方鑑】
明治12(1879)
 OPAC 画像(抜粋)
 
  jyoyo-gazou   原著者ボート・ショイベ H. B. Scheubeは、京都療病院の第3代外国人教師として明治10年(1877)8月着任した。本書は同12年(1879)、江阪秀三郎が翻訳、神戸文哉が校閲して若林春和堂から出版された。ショイベの処方した薬名をイロハ順にして掲載、原書にはない製剤法(「独逸局方」所載)を付した。凡例・目次ほか24ページ、本文126ページ、製剤の部40ページ。  
 
【京都府医学校講義録】 組織学:
OPAC 画像(抜粋) 病理解剖学: OPAC 画像(抜粋)
  kougiroku-gazou   明治期の本学講義録は本館に多数所蔵されるが、そのうち「組織学」と「病理解剖学」を掲げる。「組織学」は加門桂太郎、「病理解剖学」は角田隆の口述で、いずれも明治32年(1899)の分。和紙に墨書された微細な文字・図から医学生の意気込みが伝わる。加門は講義のために前日から黒板に図を描いていたという。角田は病理学教室初代教諭。昭和11年(1936)学長になった。  
             
             
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